南洲翁遺訓の由来
 西郷先生の真精神をものの見事に表現する「南洲翁遺訓」については、現在でも意外と知られていません。
発刊の意義と由来についてご説明致します。出発はやはり西郷先生と荘内との出会いでありました。
戊辰戦争での官軍と賊軍の関係、帰順降伏した荘内藩には案に相違して極めて寛大なものでした。
この処置が西郷先生の指導によるものであることがわかり、荘内の人々は西郷先生の大徳に心から敬慕しました。
明治3年11月には酒井忠篤公は士族70余名と共に遠路鹿児島に赴き、約半年間西郷先生他の教導を受けることとなります。荘内の人びとは、先生が東京に居られる時は東京、鹿児島に居られる時は鹿児島まで1ケ月の日時をかけて教えを受けに行っています。教を受けた人々は西郷先生の教を丹念に筆記して荘内に帰り、それを待っていた人々は、またそれを書き写 して学び、これ等の書写本が後日「南洲翁遺訓」編纂の資料となりました。
明治10年9月24日西郷先生が城山の岩崎谷で没したことを知った荘内の人たちの悲しみは言語に絶するものでした。 明治22年2月11日、明治天皇は西郷先生の賊名をお除きになり且つ正三位 の御贈位がなされました。歓喜にわいた荘内の人々が、今こそ西郷先生の偉大な人徳と、その真精神を天下に示し、後世に伝える時と考え、その悲願を果たす時まさに到れりとして着手したのがこの「南洲翁遺訓」の刊行でありました。
刊行されると、酒井忠篤翁は、明治23年4月に伊藤孝繼・田口正次を東京を中心に、三矢藤太郎・朝岡良高は中国地方から九州に、富田利騰・石川静正は北陸から北海道にと、全国の心ある人々に配布されたのです。文字通 り風呂敷を背負って、全国を行脚しての弘布でした。南洲翁遺訓は、まさに西郷先生と荘内先人達の魂の交わりの結晶なのです。